Roch Booche

17日:ルイーダのおっぱいパブ

 プレイの一環として高二のころの日記を読んでいたら意外と面白かったので閉口した。ナンツーノ。自画自賛みたいで下腹部のあばれん棒がムズムズするんですけど、ようするにやっぱり人間切羽詰ってくるとすげえ珍妙な行動をし始めるんだなあ、と、そんなことをふと思ったりしたのであった。そこから導き出される単純で明快な答えは即ち今の自分の日記のぱっとしないことも自分を極限まで追い詰めていない不摂生が原因であるとも考えられるのだけれどもまあ追い詰められてるベクトルが違うだけで十分追い詰められるよ実際、とか、消え入りそうな声で妖精だか心のメイドさんだか大豪院邪鬼だかが語りかけてきたので、げにあしからずとよくわかんねえ古語だかバギクロスだかを呟いたのちに、シャワーを浴びた。股間のあばれん棒も落ち着いてきたところであくびをしながらの日記考察。いまもむかしもそれなりに切羽詰っており共通項としては十分なるもむかしにありいまに欠如したものとは一体、と考えるうちにふと心当たりに気付いた今日この頃。むかしのサイトには一貫したテーマがあり、それはすなわち自己紹介。サイトの文章の全ては自己紹介というただ一言に集約することができ、自己紹介の庇護のもと、とんでもない性癖の暴露などが公然と行われて新たな生態系が誕生する始末。むかしのおれはずいぶんとこわいものしらずだったのだなあ、と変な感心をしてしまう始末。あるいは不始末。思えば失うものが何もないという無一文さがその奇行に拍車をかけていたのかもしれませんが、それにしたってひどすぎるにも程があります。昔の日記から一部抜粋してみますと、

 小さい子って可愛いですよね。だって蹴っ飛ばしたら死んじゃいそうですもの。それを可愛い可愛くないの基準にするな。と思った。ああでも、ほんとうに小学生ぐらいの女の子と暮したいです。こいがしたい。平日は少女を学校まで送ってあげたい。登校途中に楽しく談笑したい。そして僕は彼女が帰ってくるまで部屋で淋しく猫の死体でも弄って待っているのだ。帰ってきたら部屋の鍵を閉めて、僕から逃げられないようにして、文句を言うようならば「七族皆殺すぞ」とでも言って震え上がらせて、少女を仰向けに寝そべらせて、まっしろなおなかの上にほかほかのごはんを乗せて、僕はそれをおいしくいただく。少女がそれについて、一言でも不平を漏らす(例えば、熱い、とか。)ようなことがあれば、僕は力強く彼女の顔を殴って、僕に謝罪するまで熱く焼けた鉄の棒を、カラダじゅうにおしつけて、一生消えないキスマークをつくってあげるのだ。僕が食べ終われば、今度は彼女のばん。僕は彼女の両手首を荷造り用の紐で縛って、

 なんでこういう思想の人間が公然とウェブスペース借りて日記書いてるんですかね。箱庭療法? 誰も通報の類を一切することがなかったというところに現代社会の病巣を垣間見た気がします。するだけである。それについての具体的な解決案を未だ思いつかない。とりあえずもそもそとパンでも食ってりゃいいんじゃねえのとか思った。最近パンがいかにやすくておいしいものであるかを理解したわが身としましてはごはんよりもパンをすげー摂取することを皆々様方のもおすすめする次第でありますが、ごはんもパンもどっちもそれなりにおいしいのでごはんだろうとパンだろうと勝手に食べてください、と居直りパンを食う次第にござる。ござる口調の人間は大抵ごはん派であると相場が決まっているものの、残念ながら拙者はパン派にござる。今日の晩ごはんもパンでござった。明日の朝も昼も夜もずっとパンにござる。ばんざーい!

 総論:若さと貧乏ってこわい。

8日:おなかがヘルタースケルター

 なーんか気がついたらまた前回の更新から日が開いてて、アチャーこりゃあ数少ない閲覧者の方に嫌われてしまうな、嫌われるのは嫌だな、閲覧者のうちふたりにひとりがぼくに殺意を抱いているのだろうな、だったら更新しようかな、などとよくわかんない孤独なブレインストーミングを繰り返しながらキーボードを叩いたり爪弾いてみたり舌先で転がしたりしてみたのだけれども、そこで気付いた意外な事実。ゼロを2で割ってもそこに残るのは。孤独は学者よりもなお雄弁である。そしてそれは虫の羽音という形でぼくの耳に届く。たぶん石川賢あたりの描く虫なんじゃねえかな、とか思う。思うだけならタダなのである! ので、存分に思うことにした。空想は時に現実を駆逐する。駆逐された現実の行き先を知るものはいない。駆逐される現実の気持ちを考えたことはあるだろうか。それは正論が詭弁に覆されることと似る。自分にとって都合のよいものこそが即ち善であり、そうでなければそれは即ち悪なのである。つまりはぼくにとって、善とは空想であり、悪とは現実なのである。なんかそろそろ引き返さないと二度と戻って来れない場所に流れ着きそうなので、というか石川賢の虫の話からこんなよくわかんねえ中学生の脳内考察みてえなことになっているのかが不思議でたまらない。心の奥底であのころに戻りたい、とか思ってるんですかね。過去を憂うのはオッサンのすることであり、最近オッサン化の顕著なぼく(この前コンビニのレジの人の手元見てたら30代前半と認識されてました)にとってはまさになんというかジャストフィットでスパッツかてめえはって感じです。ところでスパッツってエロくありませんか? どうでもいいです。もう孤独でもいいです。誰の賛同もいりません。ひとりぼっちでも構いません。自分の世界に篭ることが悪だなんて、ぼくは思いません。真に孤独であれば(それはつまり友人だけでなく、親兄弟からも見放された状態であるならば、自分以外の他人との間に壁を設けた状態であれば、ということです)、誰に気兼ねることもなく、己の心の欲するままに生きても構わぬのだと、そう思います。ただし己の心の欲するものが、スプーン一杯ほどでも他人に迷惑をかけざるを得ないようなものであるのならば、その人は孤独になるべきではありません。極力他人と接するようにして、暖かい家庭を築いたりすればいいんじゃないでしょうか。孤独は精神的に死んだ人間の行き着く場所で、言うならば象の墓場のようなところです。まともな人間は孤独とかそういうこと言ってる暇あるんだったらセックスでもしててください。ウゼえ。超ウゼえ。自意識ウザすぎ。なにが「まともな人間は」だよって話でして、まるで自分がまともではない人間、一般の人間とは一線を画しているのだというクソみたいな自意識こそ墓場に送るべきで、というかこの話ループしてないだろうか。この道はさっき通った道ではないだろうか。うわー怖い。ちっぽけな小枝の瀑布から逃れる術はあるのだろうか。ありません。小枝が瀑布に飲まれることは、異常なことではありません。それはあたりまえのことで、そうしてそのあたりまえの積み重ねが日常というものを作り出しています。とかいうこの論も風化するほどあたりまえのことでありまして、あたりまえのことを持ち出してなにが面白いんだろってかんじなのです。それに伴いスパッツがエロいのもあたりまえのことなので、もうなにもかもがどうでもいいです。あたりまえのように世界が丸くて平和なら、なにも悪いことなんてねえんじゃねえのって感じです。ピース。

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