Roch Booche

かげろう

 香奈美とぼくとは幼馴染だった。小さな頃からまるで兄妹みたいにぼくたちは仲が良かった。ぼくが呼べば香奈美はそこにいたし、香奈美が呼べばぼくはそこにいた。
 それがあたりまえだった。ぼくにとって香奈美は、空気みたいにあたりまえにそこにいるものだった。

 六月のことだった。ぼくたちはいつものように香奈美の部屋で、いつものようにミッシェル・ガン・エレファントのCDを大音量でかけながら、いつものように馬鹿みたいに騒いでいた。
 ごくごくとレモンスカッシュを飲みながら、ぼくはふと、香奈美の手首のリストバンドに目を留めた。いつもはそんなものつけてはいないのに、その日に限って香奈美はそれをしていた。
 理由を問うと、香奈美は恥ずかしそうに、けれどどこか自慢げにそれを外してみせた。リストバンドの下にあったのはまだ真新しい、痛々しい一本の傷痕だった。
 少しの間、ぼくは息をするのを忘れていた。からんという、レモンスカッシュの氷のグラスに落ちる音が、僕を現実に引き戻した。
 息を無理矢理に整え、どうして? と理由を問うと、わかんない、とはにかみながら香奈美は答えた。それきりぼくは口をつぐんだ。ただただ掠れた歌声だけが部屋の中に響いていた。
 りり、と電話が鳴り、受話器をとりに香奈美が部屋から出た後、何も言わずぼくは帰った。
 それからぼくは香奈美の家に遊びに行くことをしなくなった。自分から香奈美に話しかけることも少なくなった。なんだか急に、香奈美が遠くの世界の人間になってしまったような、そんな感じを覚えたからだった。
 喪失感。それはなにか、それに近いものがあった。心の中から、ふっと何かが消えてしまうような感じがあった。けれどもそれは喪失感とは異質な何かだった。何かが損なわれるけれども、そこから更に、新しい何かが生まれだしそうな、そんな感覚だった。

 それからしばらくした、あと数日で夏休みも終わるという頃、香奈美はぼくの家へ遊びに来た。下の階から母親と香奈美の楽しそうな声が聞こえてきたけれど、ぼくは楽しいどころか、香奈美にどう声をかければよいのか、それがわからなくて頭を抱えていた。たった二週間前にはあたりまえだったことがあたりまえでなくなっていて、それがぼくを悩ませた。
 ぎ、ぎ、という階段の軋む音が聞こえて、ぼくは身を硬くした。それから少しして、こんこんというノックの音と、それから入るよという香奈美の声がした。ん、と生返事をして、ぼくは部屋のドアを開けた。そこには真っ白なTシャツに青いジーンズの映える、リストバンド以外はいつも通りの香奈美がいた。軽く手を振りはにかみながら、おはよ、だなんて言って、香奈美はぼくの部屋に入ってきた。
 散らかった漫画や雑誌、CDのケース。それを見て、香奈美は溜息をついた。片付けなさいよ、という香奈美の言葉に、男の部屋っていうのはこういうもんなんだよ、だなんて軽口をたたいて、ぼくは本を拾い集めはじめた。
 別に悩む必要はない。香奈美は香奈美なんだ、ぼくは今までどおり接すればいい。
 そう思いながら、ぼくはちらりと香奈美のほうを見た。香奈美もCDケースを手にとって、それを拾い集めていた。拾いながら、これ貸してもらうよ、と持ってきた鞄に入れていた。そんな香奈美の仕草が、いつもとはどこか違って見えた。その差異はわからないけど、ぼくの目の前にいるのは香奈美じゃない別の誰かだという、そんな気がしてならなかった。
 あらかた片付き、人の座れるスペースが確保できたところでぼくは香奈美に、ぼくの家に来た理由を尋ねた。宿題、わたしの分は終わったから。そう言って、香奈美は床に座り込んだ。鞄から夏休みの宿題の問題集を取り出して、ぼくに放った。
 受け取って、中を見てみる。綺麗な字で、そこには英単語やら英文やら漢字やら、いろいろなことが書き込んであった。それを見てぼくも机の上の問題集を香奈美へと渡した。
 国語やら社会やらは香奈美が、数学やら理科やらはぼくがやるというのが、香奈美とぼくとが夏休み前に結んだ協定だった。そうすることで夏休みの自由な時間は増える。そしてそれはぼく達がまだ小学生だったころから続けられてきた。
 これで用は済んだはずなのに、香奈美は座ったまま、馬鹿みたいにぼくの顔を見上げていた。ぼくは香奈美を見下ろしながら、帰らないの? と、そんなことを尋ねた。きょとんとしながら香奈美は、帰る理由がないじゃない、と答えた。それはもっともだったけれど、なぜだかぼくは、あまり香奈美と一緒にいたくなかった。
 なんだか変だよ、具合でも悪いの? と、香奈美は怪訝な顔で、ぼくの額に手を当てた。反射的にぼくは香奈美の手を跳ね除けていた。香奈美はひどく驚いた様子でぼくを見たけど、ぼく自身、香奈美以上に驚いていた。痛いよ、と言って、香奈美はじっとぼくの目を見つめた。ぼくは目を伏せ、香奈美から目をそらした。
 ぼくはその時、香奈美が怖くて仕方がなかった。そこにいる香奈美は、誰か別の人間なのではないのかという疑念に駆られていた。勿論そんなことはないと頭ではわかっていても、それでもあの傷跡、手首のそれが脳裏に焼きついて離れなかった。
 やっぱり変、風邪でも引いてんじゃないの? そんな香奈美の言葉に、そんなことない、とだけ答え、ぼくはゆっくりと立ち上がった。ジュース取ってくる、とだけ告げて、ぼくは部屋を出た。

 後ろ手にドアを閉めながら、ぼくは嘆息した。このままどこか、隣町にでも遊びに出かけてしまおうか。そんなことを思いながら階段を下り、台所へと向かった。
 冷蔵庫を開け、冷え切っていないコーラの缶を取り出す。製氷機から氷を取り出し、グラスに入れる。冷蔵庫から出る冷たい空気は心地よく、茹った頭を少しだけ覚ましてくれた。
 そのまま目を瞑って、よく考えてみた。どうしてぼくの気持ちはこんなに揺らいでいるのか。けれどもそれはいくら悩んでも解決せず、まるで答えの出ない計算式を解いているようだった。
 悩むのは性に合わない。悩むぐらいならば考えないほうがいい。いや、それ以前に考える必要はない。香奈美と喋るのに、何を考える必要があるんだ。
 そんな自問自答をしているうちに、暑さで氷がだんだんと融けていたらしく、グラスの底に少し、水が溜まっていた。流しに水を捨て、お盆にグラスと缶コーラを乗せ、ぼくは台所を出た。陰鬱な気持ちのまま階段を上って、陰鬱な気持ちのままぼくの部屋のドアを開けた。
 ドアを開け現れたぼくの顔を見るなり香奈美は、遅い、と一言。まるでぼくの心痛なんてわかっていないようだった。コーラが冷えてなかったんだよ。適当なことを言って、ぼくは盆を机の上に置き、缶とグラスを渡した。ありがと。香奈美はそれを笑顔で受け取った。ぼくはそれを直視できないでいた。
 ジャンプ買った? 香奈美の声に、ぼくは机の上の週刊誌を手に取ってみせた。ハンターハンターは? 載ってるよ。そんな他愛ない会話すら苦痛でしかなかった。
 週刊誌を手渡すと、香奈美はそれを読むことに没頭し始めた。ぼくは椅子に座り、それを横目で見ながら、早く香奈美の帰ってくれることを祈っていた。けれども一向にそのときのやってくる気配はなく、香奈美はベッドの上、寝転がりながら週刊誌を読み耽っていた。
 もう、耐えられなかった。これ以上香奈美と一緒にいると、気が触れてしまいそうだった。ぼくは一刻も早く部屋から出てしまいたいと、そう思った。
 立ち上がり、ドアノブに手をかける。待ってよ、と香奈美の声が聞こえ、それから、袖を曳かれる感触がした。見れば、香奈美はぼくの袖を掴み、ぼくを見上げていた。ぼくにその顔は、沈鬱な、それでいてどこか、媚びるような顔に見えた。
 ぼくは香奈美の手を振り払い、必死で言葉を紡ぎだそうとした。けれども言葉はちっとも浮かんでこず、結局ぼくが香奈美に言えたのは、帰れよ、という拒絶の言葉だけだった。
 わかった。香奈美はそう言い、荷物を引っ掴み、立ち上がった。ひどく悲しそうな顔をしていた。それ以上会話はなかった。ドアはゆっくりと閉められた。ドアの向こう、香奈美の足音はだんだんと遠ざかっていった。人が階段を下りる、ぎしぎしという音が聞こえた。少しの間を経て、玄関のばたんと閉められる音が聞こえた。
 部屋の窓から外を見ると、玄関の前、俯く香奈美の姿が見えた。それから幾許かの逡巡ののち、香奈美は踵を返し、歩き出した。歩く方向は香奈美の家とは真逆だった。
 香奈美は角を曲がり、完全にその姿はぼくの視界から消えた。嘆息して、ぼくはさっきまで香奈美のいたベッドに、仰向けに寝転がった。少し暖かかった。眼に映る天井がひどく高く感じた。
 見知らぬ、天井。そんなフレーズが頭に浮かんで、少し馬鹿らしくなった。
 深い深い眠りはぼくを知らない場所へと連れて行ってくれるはずだ。そう思って、ぼくは目を瞑った。

 夢を見た。昔よく見た、霧に包まれた町みたいにぼんやりとした夢だった。そのぼんやりの中でぼくはただ、空を見上げていた。ただ時間だけが光みたいに過ぎていった。ぼくの寝ている間に、時間は消えていった。そして消えた時間の中で香奈美は死んだ。

 仄暗い霊安室。そこに香奈美は横たわっていた。まるで寝ているかのように、その顔は安らいでいた。まるで生きているかのように、その顔は綺麗だった。でも、息はしていない。そんなに綺麗なのに、香奈美は死んでいた。
 手をとって、少し強めに握ってみた。冷たくなったその手はぼくの手を握り返しては来なかった。
 香奈美は、死んだ。その事実が、ぼくの眼から涙を零れさせた。
ぽとり、と香奈美の顔に涙が落ちた。途端に部屋中に光が満ちて、光の中から香奈美が手を差し伸べ、ぼくはそれを引き寄せた。目を覚ました香奈美とぼくは手を取り合って、それでハッピーエンド。
 当然そんなことは起こりはしない。涙が零れ落ちただけでそんな茶番劇は起こらない。死んだ人間が生き返るだなんて、そんなのは虚構の世界の中だけだ。口づけをしようと何かの儀式を行おうと、もはや香奈美がぼくに話しかけてくることは、ない。
 嘘だよな。これは夢なんだよな。ぼくは呟き、そしてまた、涙を零した。

 結局のところ、それは紛れもない夢だった。香奈美の生きているような死んだ姿もぼくの涙も、ぼくが病院の待合室で見た夢だった。香奈美はトラックと塀とのサンドイッチになって、雨の日のカエルの死骸みたいにぐちゃぐちゃになって死んだ。ぼくの見た夢みたいにきれいな姿で死ぬことなんてできなかった。
 香奈美のお父さんもお母さんも妹も、香奈美が死んだことを認めてはいなかった。そのぐちゃぐちゃには香奈美の面影なんてまるでなかった。カエルや犬や猫の死骸と大して変わりがなかった。
 そんな姿で、香奈美は死んでしまった。
 十五歳。もっと可愛い服も着たかっただろうし、もっと楽しいことだっていっぱいしたかっただろう。恋だってしたかっただろう。でもそれはもう叶わない。だって香奈美は死んでしまったんだから。

 ザオリク。

 体を投げ出して、天井を呆、と見つめながらぼくは呟いた。

 ザオリクザオリクザオリク。

 いくら呟いてみても、それで香奈美が甦るはずなんてなく、ただただ病院の薄暗い廊下に声が反響するだけだった。それでもぼくは、それしかすることがなくて、それしかできなくて、ただひたすらに、白痴みたいに連呼していた。
 悲しいはずなのに涙は出てこなかった。泣くことを忘れてしまったかのように、涙は出てきてはくれなかった。

 ザオリクザオリクザオリクザオリク。

 呟くぼくの目の前を、看護婦が通り過ぎていった。怪訝そうな表情でぼくをちらと見て、それから早足で角を曲がって消えた。

 ザラキ。

 ぼくは見えなくなったその影に向かって呟いた。当然何も起こらなかった。暗い声が暗い待合室に響くだけだった。
 香奈美。ぼくの幼なじみ。兄弟みたいに育った、ぼくの幼なじみ。
 目を瞑っても、香奈美の姿が目に浮かぶことはなかった。香奈美はぼくにとって、それだけの存在だったということだろうか。
 それは多分違う。香奈美は大切な友達で、幼なじみだった。だから、その姿を思い浮かべられないのは、たぶん心の底でぼくも、あれは香奈美じゃないと思っているからだろう。香奈美を思い出にしたくないからだろう。香奈美が死んだことを信じたくないからだろう。
 俯く。
 でもあれは間違いなく香奈美なんだ。ぼくにはそれがわかった。どんな姿だろうと、たとえば極端な話、香奈美が魔女の呪いでカエルにされたとしても、ぼくはそれが香奈美なんだとわかっただろう。それぐらいにぼくにとって香奈美の存在はあたりまえだった。
 香奈美は。
 香奈美は多分、ぼくのことが好きだったのだと思う。それはいつからかなんとなわかくってはいたけど、でもそれに応えたらあたりまえが、あのあたりまえの生活が音を立てて壊れそうで怖くて、それでその気持ちに応えることができなかった。ただそれだけのために、ぼくは香奈美の気持ちに気付かないふりをしていた。
 ぼくは。
 ぼくはどうだったのだろうか。香奈美のことを、好きだったんだろうか。友達としてではなく、女の子としての香奈美のことは、好きだったんだろうか。
 たぶん、好きだったんだろうな、と、香奈美のいなくなってしまった今、今更ながらにそう思う。あの不安な気持ちがそうだとするならば、ぼくは香奈美のことが好きだった。
 溜息。
 ぼくがもしあの時あの部屋で、例えば香奈美に好きだとでも言えばこの結末は変わっていただろう。香奈美の出て行った後、追いかけて、そして謝るだけでも良かった。でもぼくは追わなかった。告白もしなかった。ぼくは香奈美から逃げてしまった。逃げて、それで迎えてしまった、取り返しのつかない結末がこれだった。
 溜息。
 どうしようもないなあ、だなんてぼくは呟いて、俯いた。どうしようもなくなり、少しだけ可笑しくなって、少しだけぼくは声を出して笑った。少し笑った後に、ぼくは泣き出していた。
 それからは本当にどうしようもなかった。涙を止める方法を、ぼくはすっかり忘れてしまっていた。口を押さえて歯を食いしばり、涙を必死に堪えようとしても、涙は溢れてしまい、それからなにか、獣みたいな嗚咽の声が漏れ出てしまった。
 堰を切ったように涙が溢れ出て、声にならない掠れた泣声が喉の奥から出てきてしまった。次から次へと溢れ出る涙を拭いもせずに、ぼくは泣いていた。
 駄目なんだと、そう思った。ぼくは香奈美がいないと駄目なんだと思った。けれどもそう思ったところで、もうどうすることもできなかった。もう道を引き返すことはできない。香奈美はもう、帰ってはこない。
 嗚咽でうまく息ができなくて、ぼくはただ目を瞑って、治まる気配のない涙の治まるときをずっと待った。けれど結局一晩中、家に帰る間も家に帰ってからも、ぼくの涙の止まることはなかった。


 暗転。


 そこで俺は目を覚ました。ひどい夢だった。整合性などかけらもない、不確かな記憶に彩られた覚束ない夢だった。にも拘らず俺の頬には、涙の流れたらしき跡が残っていた。
 香奈美の顔なんて、俺にはもう、思い出せない。あれだけ身近にいたというのに、たったの五年かそこら、それだけの時間の経過で記憶は霧の中の標識みたいに霞んでしまっていた。
 深酒が祟ったらしく、ひどく頭が痛む。痛む頭を抑えながら、辺りを見回す。そこは暗い夜道でも病院の待合室でもなく、ラーメンのカップやらチューハイの缶やらの転がり散らかった俺の部屋だった。薄暗い電球の明かりを頼りにテーブルの上の時計を手に取る。
 八月十三日、午前三時。デジタル表示のそれは、俺にそう知らせた。
 ソファーから起き上がって、ふらふらとよろめきながら俺はトイレへと向かい、便器の蓋を開けた。そしてそのまま、勢いよく胃の中のものを吐きだした。口内が酸っぱい香りで満たされ、それが更なる吐き気を催させた。
 夕飯を食わなくて正解だったなあ。嘔吐しながら、俺はそうひとりごち、少しだけ笑い、少しだけ涙を流した。不快感と情けなさが同時に俺を襲ってきて、少しだけ死にたくなった。
 吐けるものがなくなり、口から出るものが泡だけになると、俺は洗面所に向かった。コップに水を汲み、口を漱いだ。口内の酸味と、それから不快感が少しだけ薄らいだ。
 薄暗い洗面所に、水音と、それから自分のうがいのがらがらという音が響く。ぺ、と水を吐き出すと、泡交じりの濁った水は排水溝へと吸い込まれていった。
 ことが済み、口の周りをタオルで拭き、それから鏡を見て俺は顔をしかめた。ぐしゃぐしゃの髪の毛。目の下にできた隈。真っ青を通り越して土気色になった自分の顔。まるで死神かなにかだった。マリリンマンソンだって、もう少しましな顔をしている。そう思って、俺は少しだけ笑った。鏡に映ったその笑みもまた、口の端を歪めた死神みたいだった。
 覚束ない足取りで部屋へと戻り、ソファーに深く腰掛ける。スタンドの明かりを点け、俺は酒瓶の隣、開きっぱなしの文庫本を手に取った。没頭が全てを忘れさせてくれることを俺は知っていた。
 事実、その本を読み進めていくうちに白々と夜は明け、カーテンから射す日が手元を照らした。カーテンを開けると、日差しが目を焼いた。かんかん照りの太陽。雲一つない青空。反吐が出そうなくらいにいい天気だった。

 ぎらぎらと照りつける太陽とおんおんと煩わしい蝉の声。それに頭を痛ませながら、俺は墓地へと向かっていた。そこに行くのは香奈美が死んだあの時以来、実に五年ぶりだった。
 香奈美の墓参りには、どうしても行く気になれなかった。行ったところで香奈美が生き返るわけでもないし、それに行ってしまえばまた、香奈美のことを思い出してしまうであろうことはわかりきったことだった。あのころの俺には、それは何よりも苦痛だった。香奈美を偲ぶだなんて、俺にはとても考えられないことだった。
 けれども忘れようとしても、香奈美のことを忘れるだなんてことは、俺にはできなかった。時間だけがそれを忘れさせてくれるということを知ったのは、つい最近のことだ。
 たまたま盆の日に見た夢が香奈美の夢だった。俺が香奈美の墓に行く気になった理由は、それぐらいしかなかった。
 香奈美の葬儀はしめやかに行われた。火葬場、そこで香奈美だった灰を見て、ああ、本当に香奈美はいなくなってしまったんだ、と思った。ツギハギだらけのあれにはまだ少し、ほんの少しだけは残っていたかもしれない面影も、あの灰にはそんなもの、それこそ欠片ほども残っていなかった。
 墓に着くと、盆だというのに人の姿はなく、俺はぼやけた記憶の中、香奈美の墓の場所を探り出すことになった。けれども霞の晴れることはなく、結局墓は、虱潰しに探すことになった。香奈美の墓の見つかったのは、それから十分ほど経ってからだった。
 コンビニのビニール袋から線香を一束取り出し、包み紙代わりの新聞紙に火をつけ種火代わりにした。線香すべてに火のついたのを確認して、それを無造作に供えた。
 両の手を合わせ、眼を瞑る。俺は香奈美のことを、必死で思い出そうとしていた。
「墓参り?」
 背後で声がした。昔、よく聞いた声だった。
「――ああ」
 俺は振り向けなかった。香奈美の顔は、まだ思い出せてなかった。俺は香奈美の墓に向かったまま、けれど手は下ろして、話を続けた。
「楽しい?」
「何が」
「生きてること」
「今は、な。それなりに」
「そ」
 それを聞いて、くすり、と笑っているらしい声がした。笑ってはいたが、どこかそれは、寂しそうだった。目頭が熱くなるのを感じた。
「そのうち、そっち行くよ」
「ううん。まだ、いい」
「そうか」
 会話することはあの頃と変わらず、苦痛だった。あの時は恋ゆえに。今は、己の不甲斐無さゆえに。悔しさに歯噛みしながら俺は、言うべき言葉を必死に探した。
「なあ、香奈美」
「ん?」
「お前、俺のこと、どう思ってた?」
「――好きだったよ」
「そうか。俺も、好きだった」
「うん」
 嬉しそうな声が聞こえた。頬を涙が伝った。一滴、二滴ばかりの微かな涙だった。
「泣き虫なところはちっとも変わってないね」
「うるせえ」
 笑ったつもりでいても、言葉にならなかった。空気の漏れるような声が、喉から抜けるだけだった。
「そろそろ、時間なんだ」
「もう、行っちまうのか」
「うん」
「――そうか」
 引止めようかと思った。話したいことはたくさんあった。けれどもそれをすることは、とても俺には許されない気がした。
「体に気をつけてね」
「わかってる」
「ホントに?」
「わかってるよ」
「――それじゃあ、ね」
「ああ」
 それきり、声は聞こえなくなった。俺は膝をつき、泣いていた。何度も何度も香奈美の名を呼んでいた。ひどく惨めな、とても香奈美には見せられない姿だった。
 次に立ち上がったら、二度と泣くまい。俺はそう、心に決めた。

 だから今だけは、ずっと泣いていようと思った。

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